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ヴェールライト ⑫

last update Last Updated: 2025-05-06 15:49:50

「それにしても、シオンがこんな研究をしていたなんて……」

 エレナは息を吐き、その思いを噛みしめるように言葉を続けた。

「私たちに知らせなかったのは、危険な思いをさせたくなかったからだろうね。でも、私、頼って欲しかったな……」

 シオンの孤独な探求に思いを馳せるたび、胸の奥にかすかな痛みが広がる。

 エレナはふと視線を落とした。

 その横顔には、どこか寂しげな表情が垣間見える。

「森の均衡を壊そうとする者たちがいるのなら、私たちもただ見ているわけにはいかない」

 エレナの言葉は力強く、揺るぎない意志を感じさせる。

 グリモナのグレタ、街の者たち──それぞれが暗躍し、何かを求めている。

 リノアは夜の静寂に目を向けた。

──簡単にはいかないのかもしれない。だけど、これはやらなければならないことだ。シオンのためにも、自分自身のためにも。

 月の光が窓辺に揺らめき、影を伸ばしている。

 その影は、これから進むべき道の形をぼんやりと描いているようだった。

 リノアは視線をエレナへ戻した。

「エレナ、アークセリアへ行こう」

 水の都――星詠みの力を知る場所。

──迷っている時間はない。

「そうね、明日にでも旅立ちましょう」

 エレナは迷いのない声で答えた。

 夜風が書斎のカーテンを揺らし、月の光が静かに差し込む。

「さあリノア、もう寝るよ。今夜はしっかり休もう」

 エレナの穏やかな声にリノアは頷いた。

 シオンの研究ノートの一部と手紙を手に寝室へ向かう。

 それらを鞄にしまい込み、毛布にくるまると、心地よい重みが体を包み込んだ。

 旅立ちの緊張感がわずかにほぐれ、ゆっくりと疲れが溶けていく──まるで波が静かに砂をさらうように。

 トランの穏やかな寝息が微かに聞こえる。

 夜の静けさの中、リノアは目を閉じた。

 瞼の奥に浮かぶのは、記憶の声。

水鏡の湖──

古木の根にあった鉱石──

龍の涙、生命の欠片──

 リノアの思考は過去へと遡っていった。

 あの森での出来事が頭をよぎる。

 シオンが亡くなった場所の近く、焚き火の跡で突然、風が舞い上がり、灰が舞い上がった。

 そこに現れた一つの木箱。

 あの風は私の星詠みの力が呼び起こしたものだったのかもしれない。

 あのような場所に隠さねばならなかった理由……

 おそらくシオンは誰かに追われ、龍の涙を研究所まで運ぶことができなかったの
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  • 水鏡の星詠   密やかなる命の痕跡 ⑪

     遠ざかっていく水音の中、リノアは、その場に立ち尽くしていた。 霧に紛れて消えた二人を呆然と見送る。 森の深みへ消えていった女性。 間違いなく、あの人は…… 言葉にならない想いが喉に詰まる。「リノア、油断しないで。まだ何体か残ってる」 エレナの声が背後から届いた。 霧の陰で動く影。 ひとつ、またひとつ──散らばる影が音もなく足元へ迫る。 エレナは指を弦に掛けた。 視界の外縁に残る敵の動きが、風の揺らぎに微かに浮き上がる。「残ってるのは、三体。数が減ってる。私たちの攻撃が効いているのかもしれない」 エレナは冷静に言った。 この場に居るのは、わずか三つの気配だけ。目の前にいる二体、そして森の中に潜む一体だ。 先ほどまでの統率は、もうなさそうだ。殺気も薄れ、動きも、どことなく遅くなっている。 それでも油断はできない。 散った獣ほど不規則に動き、深く食い込んでくるものだ。この者たちも例外ではない。「あいつ逃げる気なのかな」 リノアは森の中へ引き返す一体を目にして言った。「そう見えるね。あれがこの群れを操っていたリーダーなのかも。多分、人間よ」 エレナが答える。「あとは任せて、私一人で大丈夫」 そう言って、エレナが敵を見据え、そっと矢筒に手を伸ばした。 足元に目をやり、湿った地表に狙いを定める。矢が放たれ、雷光石が地を這った。 バチン! 閃光とともに電流が地表を這い、一体が足を取られて崩れる。 エレナは短弓に持ち替えると、眉ひとつ動かさず連射した。 矢が斜め下から心臓部と思しき位置へ次々と打ち込まれていく。 三本目が着弾した瞬間、二体目が呻きながら膝をついた。「さて、最後の一体……」 茂みの奥、逃げる人影が一瞬だけ姿を見せた。 砕けた鎧の隙間から覗く、細身の輪郭。揺れる布が風に翻る。「やっぱり人間だ……」 リノアが呟く。 エレナは頷いたが弓を下ろさなかった。 エレナの指先が最後の矢へと滑る。 羽根の根元には鈴のような装飾──小さな銀の球が一つ付けられている。『風語の鈴』 狩人たちが眠りのために用いる、静かで優しい凶器だ。「それ効くの?」 リノアが問う。「分かんない。取りあえず使ってみる。効果を発動させるには衝撃が必要と言ってたっけ? ちょっと遠いけど、風に乗れば届くでしょ」 エレナは弓を引い

  • 水鏡の星詠   密やかなる命の痕跡 ⑩

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    「ヴィクター、一つ訊いていい? 何でグレタと一緒にいたの?」 優しげな視線に潜む鋭さが、ヴィクターの心を突き刺すように走り、ためらいを問答無用で断ち切る。 ヴィクターはすぐには答えなかった。 その沈黙が、かえってヴィクターの動揺を際立たせる。「……騙されたんだ。あいつはグリモアでも異変が起きてると言って近づいてきた。リノアならそれを止められるって。だから……俺、協力するしかないと思ったんだ」 海鳴りが断続的に響く中、ヴィクターの声が波間に沈むように響いた。その声は途切れ途切れで弱々しい。 アリシアは、その言葉にすぐに反応できなかった。 海鳴りの合間に思考の波が打ち寄せる。 グレタの意図は何なのか、いまいち見えてこない。「それで、ヴィクターは何をしたの?」 疚しいことをしていないなら、逃げる必要なんてないはずだ。 ヴィクターは沈黙の中、視線をゆっくりと落とした。 そして何かを確かめるように間を置き、絞り出すように言葉を紡ぐ。「グレタたちは森で何かを探してたんだ。自然保護の調査だとか言って……」「それって、探していたのは鉱石ですか?」 セラが不意に割り込んだ。「どうして、それを……?」 ヴィクターは驚きのあまり、声を失い、思わず息を止めた。視線がセラに釘付けになる。 動きかけた手が止まり、まるで心の奥にしまっていた記憶が不意に引きずり出されたようだった。「わたし、クローブ村の近くで青白い光を見たことがあるんです。地面の割れ目から浮かぶ怪しげな光でした」 セラは一歩踏み出すように身を前へ傾け、そっと言葉を紡いだ。指先が無意識に袖を握りしめている。「崖崩れが起きた時なんて、土の色が変わってた。木々も不自然に枯れていたし」 セラの声が空気に染み渡るように響くと、ヴィクターの顔色がさっと変わった。心の奥を急に照らされたように、視線が彷徨う。「知らなかったんだ。森を壊すことになるなんて、思ってもみなかった。気づいた時には……すでに、自分の手で多くを傷つけてしまってた。何も知らずに……」 声がかすかに揺れる。後悔が言葉の端々から溢れていた。「だけど、クローブ村の近くで起きた件と崖崩れは俺じゃない。あの場所には、俺は関わってない」 ヴィクターの声が波音に飲み込まれるたび、か細く震えて戻ってくる。 アリシアはゆっくりと視線をヴィク

  • 水鏡の星詠   ひと気なき傾斜の先に ⑧

    「祭りの日……森の異変が噂になって、村中がざわついてた。俺も不安でさ、先のことが全然見えなくて。木工の仕事も思うようにいかなくなったし……。いつも通りにやってるのに、木が妙に乾いてたり、芯が脆く割れてたりしてさ。そんな時に、リノアが村の儀式でリーダーに選ばれたって聞いて……」「だからリノアに絡んだって言うの」 アリシアが冷ややかに言い放った。「後になって気づいたんだ。俺、ひどいことをしたって……」 ヴィクターは視線を落としたまま、苦しげに言った。「だから、あいつを──リノアを追うことに決めたんだ。何か俺にもできることがあるんじゃないかって……」 ヴィクターは言葉を絞り出すように言った。声が震えている。「リノアに怒鳴ったのは……たぶん、自分の無力さをごまかしたかったからだと思う。あんなの、ただの八つ当たりだよな……」 言葉を紡ぐたびに、ヴィクターの声が小さくなっていく。 アリシアの胸を冷たい風がひとすじ吹き抜けた。 ヴィクターの言葉が本心なのか、場を繕うための嘘なのか、判然としない。 ヴィクターの手が膝の上で震えている。 アリシアは沈黙の中、そっとヴィクターから視線を逸らした。 その顔に浮かんでいたのは、ただ、何かを喪失し尽くした者に残る、擦り切れた疲労だけだった。 もうヴィクターの言葉を疑う理由はない。 ヴィクターは嘘をつくには不器用すぎる──それは昔から知っていることだ。 誰かを騙すために言葉を選ぶ器用さも、感情を隠す技術も持ち合わせていない。むしろ、こうして自分を責めるように喋り続けること自体が真実を表している。 語られた後悔は、きっと本物なのだろう。 しかし、まだ心に引っ掛かるものがある。それは、このアークセリアの地でヴィクターが取った不審な行動だ。 どうして、ヴィクターはグレタと行動を共にする必要があったのか。 心の奥でアリシアは警戒心を拭いきれずにいた。 グレタはグリモア村の村長。少し前にクローブ村に姿を現し、リノアのことをあれこれと詮索したと聞く。 その名は何度か耳にしていたが、良い噂は殆どなかった。善意の面影をまとっているが、底の見えないものを孕んでいるという話だ。 アリシアは立ち上がって、ヴィクターから少し距離を取った。

  • 水鏡の星詠   ひと気なき傾斜の先に ⑦

     斜陽の残光が射す中、ヴィクターとセラが座り込んでいる。 そこは海沿いの高台——静寂に包まれた場所だった。 遠くまで広がる海の向こうに、夕空が赤く滲んでいる。 波音がやさしく耳に届き、潮風がアリシアの頬をそっと撫でていった。 ヴィクターは壁にもたれ、目を伏せている。肩は小刻みに上下し、呼吸は浅い。 セラは肩で息をしながらも、どこか安堵したように微かな笑みを浮かべていた。しかし緊張は肌の下にまだしっかり残っている。 きっと状況が一旦止まったことによる一時の休息でしかないことを実感しているからだろう。 アリシアは、その場に立ち尽くした。 その場の空気に何かが沈んでいる気がして、言葉を選ぶことができない。「……アリシア……どうして、こんなところに……」 壁にもたれ、うな垂れていたヴィクターがゆっくりと顔を上げる。 その瞳は相変わらず掴みどころがなく、夕暮れの光に溶けかけていた。「妙なとこで再会するもんだな」 ヴィクターは笑ったのかどうかも曖昧な、微かな表情を口元に浮かべた。 ヴィクターの声には、懐かしさだけではなく、安堵も含まれている。アークセリアでの再開がそうさせるのか、それとも他の理由があるのか…… アリシアは胸の奥が揺れるのを感じた。 ヴィクターはこの地に来てまで、一体、何をしようとしているのか。それを問いたださなければならない。 ヴィクターが壁に背を預けたまま、視線を落として息を吐いた。 肩がわずかに沈み込む。 それは意識的に力を抜いたというより、何かを諦めた身体の反応だった。音を立てずに吐かれたその息には、言葉にできない思いが込められている。「助かったよ。ここに来てくれて。俺、もう、どうして良いか分からなかった」 ヴィクターの眼差しは、目の前の光景ではなく、過去の残像を見ているかのようだった。 その眼差しは目の前に広がる海に向けられている。 クローブ村には海は存在しなかった。ヴィクターが知る景色ではないはずなのに、どこか懐かしそうに海を眺めている。「ヴィクター、あんた、ここで何してんの? カイルは?」 黙って様子を見つめていたアリシアが堪えきれずに口を開いた。「カイル? カイルなんて知らない。お前こそ、どうしてここにいるんだ」 ヴィクターは顔を少しだけ傾けて、ぼんやりと返した。「あんたが怪しいから追ってき

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